書簡和解-705-20211121

20211121令和3年11月21

琉球國中山王尚 、進貢官員を接回する事んの為に。
切にてらしみるに、幣国は海壤に僻居し、世々天朝の洪恩を くるなり。すでに康熙肆拾 柒年に於いて、特に耳目官向英・正議大夫毛文哲を遣わし、梢役をし、海船貮隻に座駕り表文方物を齎捧もた らしささげたること已既にすでに貴司に移咨し て、起送し京に赴かしめ恭しく聖禧天子の幸福を祝せしめられ んことを煩爲ねがいたるが、外、なほ、さきのの例をしらべたるに、入覲 はいりまみえたる官員は今まさに閩に回る べければ、本国さに船をし 接回して閩地に淹留久しくとどまるするに至らざれば、以って天 朝朝の廩餼をらすべし。此れが爲に都通事蔡文漢・使者向和聲 等を遣はし、水梢をを帶領し、海船貮隻に座駕り、福省に すすゆきてきて皇上の勅書 、ならびに欽賞の物件と京より回るの貢使及び存留官伴とを 迎接せしむれば、一齊に歸國せしめられたし。 伏して乞ふらくは、貴司詳をしたためめて督撫兩院をして来る夏の風汛ふうじんいて歸るを賜わらし めんことを。更に瀆者申し述べること康熙肆拾壹年、京より回るの貢使鄭職良等は、夏至の風汛ふうじん期を過ぎたる陸月にいてびんいて開船し中洋に至りて颶風にわか、舟をくつがえし、命を船上に預く。所有くだんの勅書ならびに欽賞の緞だんひき等の物は海に没せり。彼の時、皇上の矜憐あわれみもて勅令あるを蒙る。
しらべるに船隻を堅牢に修するの上諭にして、感戴盡す無し。ただ舟は固よりすべからく堅緻にすべきも、期を過ぎざれば、亦た沈溺を免れ難し。
なお肆拾肆年の摘回の商船は、夏至亦た已に期をすぎたる陸月に福省に在りて開洋し、半途に到り、風に遭ひ、應に落漈らくさいiいたらんとするのとき、幸いに漸く風み、小船轉じて北山に収せらる。大船は飄ひて東北窮荒の海島に往き、冬にいたり、はじめて歸るなり。
又、客夏すぎさった夏、摘回の兩船も亦、夏至を過ぎての陸月初肆日、閩安鎮びんあんちんで、拾参日五虎門をば開船し、將さに半洋に至らんとするの拾捌、倶に颶風のにわかにおこるに遭い、両船は分かれてく。都通事曽暦等が乗る所の小船はとまを損ひ、桅を折られ、海上を泛流はんりゅうし、貮拾参日、又颶風・巨浪に遭ひ、船尾を打ち裂かれる。貮拾捌又風の起こるに遭ひ危亡甚だ急なり。幸いに七島を見て針を本国に轉じて、捌月初肆日に至りてやっと・わずかに北山に至れり。
又、暴風に遭ひ本船をほうっておいてやぶられる。其の都通事紅永祚等、わる所の大船は全て海中に没し人の屍を見ざるなり。今に至も国中彼の官伴水梢之父母、妻子の哭く聲、未だまず。人をして心をたましむるるなり。誠に恐る、此番今回も幣国の末員、事にまかするに堪へざれば、ほ、前轍を踏み、期をあやまらんことを。ただ是れ海外、すえの夏・猛秋の間、必ず颱颶たいぐしばしbき, 所以だから舟人の敢えて船を行かかしめざるなり。或いは冒舟を行う者は、多く舟を覆し悞をあやまり致すなり。
事は統べて貴司に留心して祈り始終照佛すらば所有くだんの應行事宜まさにおこなうべきことがらについては宜しく詳文もて、両院に具題せしめられたし。

乞ふらくは、向後に于いて毎年の伍月初の旬に歸を賜ふるを例と為し、ただに航海蟻員のみ風涛のおそれを免れるを得ざるなり。挙国感戴し而して将来の貢典も亦期をあやまりこと無からるべし矣。此れが爲に、理として合しく貴司に移咨すらばこいねがはくは察照して施行とりはかられたし。須らく咨する者に至るべし。
右は福建等處承宣布政司に咨す。

康熙肆拾捌年十一月


20211123令和3年11月23

 

 

聖禧 天子の幸福 淹留 久しくとどまる 『旧琉球藩評定所書類 書簡和解』